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『南山会の思い出』

更新日:2021年1月2日



南山会世代は『生きていることが全て』という、アナログの『我』は、生老病死、人間如何に生くべきか、ベネ・ビ・ベーレの人生を顧みます。


南山会初代、2代の面々は、明治生まれの親父の血から、長男とか10人兄弟もいる大家族の一員として生まれ、生めよ増やせの時代である皇紀二千六百年生まれや、戦中、戦後に明治の親の『ひとたれ』の集まりである。


明治生まれの小卒である親父と、11人の子沢山の働き者のお袋の11番目に生まれた『我』は、

『ソサイエティ1.0』には、戦争未亡人の優しい担任と、ムチを持った恐い女家庭教師に出会い、狩猟社会を生き延びてきた。


『ソサエティ2.0』の農耕社会の中学・高校時代は良い友人、良き師に出会い、勉強と人生に恵まれました。10代、20代前半は、空海・福沢諭吉・周恩来を尊敬し、小中高校からの友人と70年生き抜いて、友人と師の大切さを痛感しています。

このコロナ禍の21世紀に生きている有り難さは、如何に友人と師の大切さを沁々感じております。


さらに『ソサエティ3.0』の工業社会である大学から15年間は、ケネディ暗殺事件と、昭和45年の三島事件を六本木の自衛隊市ヶ谷の車中で、歴史の流れと、人生行路に目覚め、耳学問と百聞の一見とで色々と悩み生き抜いてきました。


そして『ソサエティ4.0』は、35年前に南山会に入会し、初めての会合での、田中清玄先生との出会いの鮮烈さと感動を授かりました。

清玄先生が、スプーン一杯の中のバクテリアの講話とか、アラブ世界との石油交渉の経緯を、直接膝詰めでの対話に感動し、生きる糧と人生の指針になりました。それから南山会はほぼ皆勤賞であります。『我』にとって南山会の耳学問は、私の血となり肉となり、友人の有り難さと、人間如何に生くべきかの精神を活性してくれました。

この『ソサエティ4.0』の情報社会を生き抜けたのは、南山会の力だと考えています。

特に伊豆の稲村ヶ崎の合宿や、小金井倶楽部での会合では大変お世話になり、色々のエピソードが満載ですが、ハプスブルグの当主であるオットー大公の人生流転と、実際に面談したパーティーでの出会いは、歴史と人生経験の大切さを感じました。


アナログ人間の典型の『我』にとって、『ソサエティ5.0』のデジタル化世界で、これから何年生きられるのか、ケネディ、三島と石原慎太郎の時代に生きた私は、南山会の35年間、毎回の会合の奇蹟とエピソードが私の糧となりましたが、これからの『ソサエティ5.0』に逆らうアナログ人を覚醒できるように南山会に期待しています。


化石の南山会第2世代の『我』は、ポストコロナの世界で、資本主義・民主主義終焉後の『表象の危機』の世界である『新しい実在論』を生み出す世界である、如何に生くべきかを、南山会のテーマとして提案致します。


川﨑進 2020年11月29日

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